イーストラボール六王国
イーストラボール六王国とは、かつてラボール島東海岸のナース市近郊に位置した6つの王国のことである。
ナース王国、ケモミール王国、オネー王国、ロリロール王国、メードー王国、ゴビ王国の6カ国であり、最初の王朝ナース王国の成立からそのナース王国が大ぶらうん帝国に征服されるまで800年近くにわたり東海岸に独自の文化圏を築いていた。これまでラボール島東部文化圏であるとされていたが、最近ではラボール島六王国文化圏と目されることが多い。
18世紀のはじめの各王国の支配圏と交易路。内陸の南ロリロール人、ショタール人とは交易を行う場合と戦う場合との両方があった。ペダーラル人は友好的な民族であった。
歴史
建国
最初の王国、ナース王国をたてたのはラボール帝国首都フラワットで王族に仕えていたナー家の当主、ヴァンダンテ・ナーである。ナー家は代々王に仕えた名家であったが同時に諸家からの反感を招いた。ナー家と同じく王族に仕えていたリー家のオルレアン・リーはヴァンダンテを謀略で追放した。
ヴァンダンテは現在のナース市にあたる地域にたどりつき、ここで現地の百姓らを組み込み、1106年にナース王国をたてた。
「ナース」とは別に病院のAngelではなく、「ナー家のもの」の意味を持つフラワット語の「Ner-ts」(Nerがナー家、-tsは〜のもの)に由来する。
ナース王国の繁栄はめざましく、周辺の豪族らを次々取り込み、ナース近郊の沿岸諸都市(といっても大きい漁村レベルだったといわれる)を支配下に収めた。
これらの豪族はラボール帝国が地方に派遣していた者たちであり、彼らが次々裏切ったためにラボール帝国はナース王国への侵攻を決めるが、当時ラボール帝国は深刻な財政難に陥っており、他国への軍事行動なんてできるわけがなかった。
結果的にナースへの侵攻は断念される。
しかしそれが気に食わなかったのか、リー家は私兵を集め、1115年にナース王国を攻撃するも返り討ちに遭い、有力な家臣や武人を失った。そのうえ、戦いの最中で家長オルレアンも討たれたためにリー家の軍は総崩れとなり、結果として歩兵らは帰り道もわからず、ゆくあてもなく彷徨いナース王国に投降した者もいれば山に消えて行方知らずとなった者、海岸のナース王国諸都市の住民に保護された者など様々で、生き残った有力な将官は逃れる者が多かったが中にはナース王国に従い国をたてる者もいた。
ケモミール、オネー、メードー、ゴビの4王国はその例である。
ケモミールはリー家の近衛軍の軍隊長であったホーセルン・ケモミールがたてたもので、建国直後、ヴァンダンテと会談しリー家に従っていたものの代表して謝罪、そして王国に付き従うと発言。ナース王国は属国を得た。
そしてホーセルンの死後に彼の息子らがたてたのがオネー、メードー、ゴビの各王国である。
そしてロリロール王国はもともと住んでいたロリロール人が、ナース王国にならい成立させた国家である。ちなみにこのロリロール人は慣習的に10代までの少女を神の遣わした天使であるというロリコン(少女に帰依するという意)という教えを代々受け継いでいる戦士だったりするのだがまた別のおはなし。
小さな政治的武器?
1248年、内紛に耐えられずにラボール帝国は崩壊した。このとき、フラワットを中心として、複数の王国がたてられたが、その多くが短命に終わった。ナース王国近郊においても、いくつかの国家が樹立されては滅んでいった。ナース王国・ケモミール王国はこの混乱を好機と捉え、国家サバイバル状態の最中の東ラボール地方で「我が国に住めば混乱に襲われない」と宣伝し、急速に勢力を拡大。このときナース王国には40万人が、ケモミール王国には35万人が住んでいたとされており、東ラボールの六王国圏で100万人の人口を数えた。これはフラワット圏に次ぐ規模である。
その後、14世紀に入ると急激な人口増加によってだんだん農地が足りなくなってきた。これを受けてナース王国は拡大政策に走る。比較的肥沃で、かつ抵抗も少なく占領できそうな土地を狙っていた。
そんな中の1397年、メードー王国の冒険家ハンスは嵐に見舞われた末に謎の島に辿り着く。現地住民と接触したハンスは全く言語の異なる未知の住民であること、そして島民の気性は穏やかでこちらから何かしない限りは何もしてこないであろうという内容の手紙を本国に送ると共に、現地の言語の研究を始めた。
ハンスの研究文とされる以下のような文章が残っている。
この島の人は、りんごのことを「Bappe(原文ママ)」と呼ぶ。文法が大きく異なり、彼らは主語の後に述語を用いる。文字を持たず、彼らは伝承で歴史をのこしている。
この島のことをシーナ島(ニューナース島)と名付けたハンスはそのままシーナ島に定住し、現地住民を集めて大規模な農場を建設した。
シーナ島では香辛料の栽培に成功し、この香辛料を高値で売り捌くことでメードー王国は経済的に豊かになったが、メードー王国は六王国圏以外に商売ルートを持たず、結果的に1426年、メードー・ナース覚書によってシーナ島の香辛料販売はナース王国が一括して販売し、売上を分配することで合意した。
また、ケモミール王国の冒険家であるボリス=デージはハンスの後を追うようにシーナ島へ向かうも失敗。シーナ島近郊の島に流れ着いた。ここをシーミール(ニューミール)島と名付けたボリスはこの地でナツメグが取れることを把握するとすぐに本国に専売許可をとりつけ、ケモミール王勅許シーミール組合を立ち上げてすぐさまナツメグの増殖、販売を行った。
ラボール帝国崩壊後、まともな長期安定の王国が誕生しなかったことで、帝国崩壊から既に200年が経過していたにもかかわらず当時のラボール島は荒廃していた。そんな中「ナツメグなどの香辛料で繁栄を極めた国家」の噂がラボール島内を駆け巡り、さらに取引をした国々の経済も安定しだした。このことから、香辛料は「安定を齎す魔法の産品」であると信じられ、価格が暴騰。六王国はさらに豊かになった。とくにナース王国は各国からの取引依頼で大いに繁栄し、それはナース王国第9代国王マーヤ=コバーク=ナーの時代に絶頂期を迎えた。
フラワット朝は六王国の掌で踊る
1509年、ようやく新しい統一王朝であるフラワット朝ラボール帝国が成立。彼らは非常に強大で官僚制により国内を適切に統治する一方で拡大政策を強力に推し進めた。後にラボラボール朝大ぶらうん帝国を建国することになるラボラボール家やポータル諸島のショコラ家などがフラワット朝の支配下に堕ちるなか、ナース王国はフラワット朝が敵対的な行動をとる度に香辛料の取引を停止した。フラワット朝初代皇帝のデムン・フラワット1世は信心深い性格で「魔法の産品」香辛料取引を欠かさず行い、常にそれらを食事で用いた。
そのためにナース王国の香辛料取引停止は彼を苛立たせた。1523年、デムン1世がナース王国の攻撃を命じたその直後、ナース王国は胡椒を栽培していた土地に火を放った(というニュースが報じられた)。さらに便乗してケモミール王国のナツメグ栽培エリアにも火が放たれた(とされた)。デムン1世は狼狽し、ナース王国ら六王国との友好条約を締結。六王国は独立を保った。
反乱との戦い、遊牧民跋扈する大地
しかしながら、六王国が繁栄していたのはこのあたりまでで、それ以降は反乱に、とくにショタール人の反乱に悩まされた。
時代は少しさかのぼり1480年。
この年、オネー王国にショタール人の一派であるオネー=ショタール人が侵入。オネー=ショタール人の軍隊とオネー王国の軍隊はオネー王国首都のネーサンシッテーを流れるオネー川で激突した(オネー川の戦い)。結果、オネー王国軍は敗北し、ショタール人の国内への侵入を許してしまった。
そもそもショタール人は遊牧騎馬民族で、六王国の中でも南部に位置する3カ国(オネー、メードー、ゴビ)のあたりからロリロールにかけての高地に暮らしていた。彼らにとっては原住地であるため、侵入してくるのも当然っちゃ当然であるが、オネーとしてはたまったものではないのもまた事実。以後「商業の国々」は得た利益を常備兵の育成に充て続けることとなる。が、それでも反乱は定期的に起き、先程のシーミール島などでも安月給で働かされていた現地住民による反乱が幾度となく起き、そして現地総督に鎮圧された。
この軍事費がやがて国家予算を圧迫した。
18世紀中ごろにもなると、これらの予算で国が回らなくなってきており、さらには最大の貿易先だったフラワット朝が深刻な飢饉に見舞われて香辛料どころではなくなり、さらにフラワット朝の海外進出が香辛料の価値を下げた。過去の栄華はもうなく、6カ国はいつ滅ぶともしれぬ綱渡の国家運営を行うこととなる。
19世紀入ってすぐの1802年、成立したばかりのラボラボール朝大ぶらうん帝国がフラワット朝の最後の残滓である南フラワット専制国を滅亡させると、勢いそのまま東海岸の征服へと向かった。
当時の大ぶらうん帝国皇帝、ぶらうん1世は島内の統一を急速に推し進め、近代的な統一国家の形成を目指していた。そのためにいかなる諸侯も「滅ぼすか、土地を奪う」という強引な方法で臨んでいた。
ナース王国はじめ6王国のうち、軍事力に劣るロリロール王国は1807年、王であったユーナ=スミミ=ロリロール王の提案で大ぶらうん帝国と会談の場をもち、「文化財・国民の保護」の保証を受ける代わりに国家の解体を受諾する宣言(ロリロール宣言)をぶらうん1世との間に締結。1807年11月に大ぶらうん帝国軍の進駐を受け入れ滅亡する。
ロリロールの滅亡は、ナース王国に国防上の危機をもたらした。
戦わなくてはならない、ナース王国国王ルーン=コバック=ナーは国家の存亡のために大ぶらうん帝国との戦争の道を選んだ。
1812年2月、ナース王国軍と大ぶらうん帝国軍はかつてロリロールとナースの国境だったロリナース関で大規模に衝突(ロリナース事件)し、ここにナース戦争の火蓋が切って落とされる。
ナース戦争においてはケモミール、オネーがナース側で参戦。メードーとゴビは中立を宣言した。序盤はナース優勢で戦闘が進み、1812年の6月にロリロールの首都を制圧。普通ならこの時点で講和となることが多いが、ラボラボール朝は講話を拒否。そしてケモミールを優先して狙いだした。
ケモミール王国は1812年9月に瓦解し滅亡。ケモミール旧領に進駐したラボラボール朝からの挟撃を受けることとなる。
またラボラボール朝はナースへの攻撃と並行して中立宣言をしたメードー、ゴビ両王国への侵攻を開始。これを受けて1812年9月、メードー、ゴビ両王国は南部連合を組織。10月に南部連合はナース・オネー両国の連合と統合され西南同盟に発展したが、1812年11月12日のキューシ川の戦いにおいて西南同盟軍主力が撃破され、ゴビ、メードー王国が滅亡。オネー王国では戦費がかさみ、政情の不安、そして治安の悪化から反乱が発生し1813年に滅亡。残されたナース王国もラボラボール朝の進駐を受け入れ、ついに1813年4月、ナース王国は大ぶらうん帝国保護領となり王家としてのナー家は滅亡、大ぶらうん帝国の身分制度における「貴族」となる。
本当に最後の戦い
しかし、ナー家は諦めた訳ではなく、最後の国王ルーンが保護領の知事に就任した後から反乱の準備を整えていた。ナースの元軍人らが参加することとなり、満を持して1815年2月、ナース王国再興を高らかに宣言、同時に全ての交通路が制圧され、ナース保護領内の大ぶらうん帝国軍人は否応なしに攻撃された。ぶらうん1世は大規模反乱と断定。史上初のぱすてる命令が発布された。
雑多な銃火器しか持たない民兵どまりの元軍人と、充実した兵力、補給を持つ帝国軍とでは戦闘力が文字通り桁違いであり、1815年3月に反乱は完全に鎮圧。ルーンは流れる途中に捕縛されサッツレイ島(当時)に島流しに。他のナー家の人物も貴族位の剥奪を受け、国内のあちこちに離散させられてここにラボール帝国時代からの名門ナー家は滅亡したのだった。
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