フリーダム号撃沈事件
フリーダム号撃沈事件とは、1988年10月29日に大ぶらうん帝国で発生した事件。本項ではフリーダム号撃沈作戦の「第三もみじ作戦」についても解説する。
概要
第三次バタケール内戦末期に、羅戊京で自動車テロを企図していたバタケール解放派の一派・バタケール人民解放戦線が保有していた貨客船「フリーダム号」が帝国海軍の特殊潜水艇・第26番任務艇によって攻撃、撃沈された事件である。乗員18名とバタケール人民解放戦線のメンバー7名が乗船しており、全員が救助された。
当初、帝国政府は船内に積み込まれていたガソリン120㍑が何らかの要因により気化、そこにタバコの不始末が重なり爆沈した事故と断定。1989年6月に事故調査委員会が最終報告書を提出し、事件は幕を閉じた。しかし事故直後から帝国海軍の掃海艇やサルベージ船が事故海域近辺を頻繁に航行しており、最終報告書の提出後も事故海域でサルベージ活動を行なうなど、不審な動きをしていた。これを契機として、フリーのジャーナリストらによる取材がはじまり、結果1992年2月に帝国海軍による撃沈の事実が明らかになり、1995年10月、帝国海軍はフリーダム号撃沈作戦の存在と海軍による撃沈を事実上認めた。
事件の経過
-船の動向-
フリーダム号は、1961年に貨客船「すみれ」として黒威造船戸依造船所で建造された。その後黒威汽船のユウタンポーシュー航路に投入され、1980年4月に「すみれⅡ世」に置き換えられ、ポータル諸島に本社を構える北部興業汽船に売却された。
この北部興業汽船は、バタケール解放派のひとつ、バタケール人民解放戦線がつくったダミー会社であり、1980年5月に譲渡されてすぐ、帝国領大瀬戸王国の大瀬戸遊覧汽船に売却され、その後1年ほど大瀬戸ー松島航路に就航したのち、1981年7月にパナマ籍となり、佐世保に登記されていた「大東汽船」という会社に売却された。その後、この会社の所属のままリベリア船籍となった。これはバタケール解放派による諜報網逃れの戦術であり、実際に帝国軍の諜報部隊は、北部興業汽船とバタケール解放派の関係を知っていたため、「すみれ」をマークしていたが、大瀬戸遊覧汽船への売却後、バタケール派とは無関係の組織に移譲されたとして追跡の手を緩めていた。
1982年1月4日、前年末に取引された、黒威汽船の貨客船「ぼたん」をバタケール解放派に不正に売却したとして北部興業汽船は強制捜査を受ける。その際に北部興業汽船は、大瀬戸遊覧汽船に出向社員を極秘で送っていたことが判明し、大瀬戸遊覧汽船はマークされる。
しかし既に「すみれ」と「さくら」はまんまとリベリア船籍の船になっており、それぞれ「キャラベル」と「ガレー」という名前に化けており、帝国軍はしばらくこの船たちのゆくえを知ることができなかった。
1984年5月12日、バタケール人民解放戦線は大東汽船から「すみれ(キャラベル)」を受け取り、「フリーダム号」と改めた。そしてバタケールのジャガーリ湾に寄港。ここでモーターボートを引き上げるための装置と、ガソリン120㍑が積み込まれ、5月14日、船は佐世保へと向かった。
5月16日、佐世保湾に入る。ここで舵を切り、事前の計画通り川棚港へ向かう。5月17日の深夜、船は川棚港にはいった。
-人民解放戦線メンバーの動き-
1980年9月、バタケール州の反政府組織の一派である、バタケール共産主義者同盟(以下・畠共産同盟)はそれまでの暴力革命を是認する方針を転換、州議会の中で勢力を確保し事実上独立する「現実派」と呼ばれる方針を取る。このため独立闘争を希求するグループは畠共産同盟を離脱。1981年2月、新たにバタケール赤軍派(以下・畠赤軍)を組織。赤色テロルを通し、バタケールの独立をめざした。
しかしながら畠赤軍は1981年12月12日に、初代指導者のガレード・ブロッコリーが急死したことよって早くも分裂。ガレードから生前に後継者として言及されていたザインツ・チップスを二代目指導者とする「正統派」、軍事部門を総括していた本土出身の船見依嗣を指導者とする「船見派」、そして戦闘員教育を行っていた訓練部長のオルティア・キャロールを指導者とする「キャロール派」の三派閥に分かれた。
このキャロール派はバタケールだけで闘争を完結させることなく逆に本土を攻撃し、時の皇帝リッテル一世などの羅戊朝王族を処刑し、バタケールを都とする新国家の樹立を目指す、特に急進的な派閥であった。そのためキャロール派は、あくまでもバタケール一州での独立を目指す正統派・船見派と真っ向から対立した。結果として、1982年3月31日付でキャロールと幹部数人が正統派から「除名」されることとなった。しかしキャロール派はこれで終わることなく、新組織の「バタケール人民解放戦線(以下・人民戦線)」を設立し畠赤軍と対立した。
三派閥のなかで最も勢力的に弱小であった船見派は人民戦線に単独で対抗することは困難であるとして正統派との和解交渉に動いた。正統派としても軍事部門の長・船見依嗣を抱える船見派を取り込むことのメリットが大きく、結果として1982年5月1日に正統派と船見派は和解。また、畠共産同盟に対して「いま、反逆の意図はない。目下の課題は人民戦線を封じることである」として事実上の敗北宣言と同時に和解交渉を持ちかけ、82年10月5日についに和解。
畠赤軍は暴力革命の綱領を維持したものの、実行には疑義がつけられ、大きく譲歩した。
敵が増えた人民戦線は各地で対畠赤軍・畠共産党(1982年11月12日に共産党に改組)の暴力事件を実行。1983年2月3日に畠赤軍の本部、ニーソークブルグ郊外のビルを襲撃したほか、3月12日には畠共産党本部を襲撃、畠共産党幹部 のリンスバードが落命する。
これにより対抗勢力の切り崩しに成功した人民戦線は1983年6月3日の最高幹部会議で「敵は畠赤軍にあらず」と宣言。帝国政府を相手取り、革命闘争を開始することを宣言した。
1984年5月12日、人民戦線幹部陣はとうとうフリーダム号と対面した。そして人民戦線教育部長の中原隆幸と船舶免許を持つ戦闘員20名が乗船し川棚へ向け出発した。17日深夜に中原から人民戦線本部へ川棚到着の電報が送られた。
-第三次バタケール紛争開戦まで-
1984年9月1日、9月騒乱勃発の日を選んで行われた人民戦線の会議で、とうとう対帝国政府戦争の開戦が決議された。キャロールは「バタケール人民1500万のための闘い」として反乱を正当化。フリーダム号の中原らにも同様の旨が告げられた。
1984年9月10日、ニーソークブルグ発、大瀬戸王国の瀬戸港ゆきの貨客船「もみじ」に人民戦線軍事部長の青谷宏美らが「赤座淳」などという偽名を使い乗り込んだ。12日昼、瀬戸港に到着してすぐ、中原の運転するワンボックスカーに乗り込んだ青谷らは、そこで密かに運んできた自動小銃と自決用の青酸カリ入りカプセルを渡した。彼らは川棚・石木郷奥地に建設された秘密基地に移動し、そこで開戦の旨を正式に中原らに告げ、告示文を提出した。中原らは歓喜し、麓で酒や刺身を買い、その日は宴会を開いたという。
9月13日未明、戦闘員の小谷淳一、大原裕ら7人は眠る幹部陣らを置いて川棚の街へ向かい、フリーダム号に自動小銃をはじめとした武装の類を積み込んた。そしてフリーダム号を出港させ、西彼王国近海を航海し早朝までに帰還。速力などの実戦的なデータを回収することに成功した。
13日、人民戦線は再び最高幹部会議をひらき、開戦を1985年1月1日午前0時とすること、バタケールでの戦闘を起こす前に帝都で自動車テロを起こし、皇帝一族は発見次第殺害することなど戦闘の詳細が煮詰められた。
9月14日、人民戦線本部から「川棚挺身隊(以下・川棚隊)」という部隊名を授けられ、開戦日時、作戦の内容が定められた。
フリーダム号は1984年12月29日に川棚を出港し、12月31日深夜に羅戊港のはずれにある漁港に強襲上陸し、0時きっかりに羅戊駅で自動車によるテロを決行することとした。そのために自動車2台の購入と爆弾の積み込みが行われることとなり、9月20日、フリーダム号は戦闘員15名を乗せ川棚を出港した。
9月22日深夜、バタケール東海岸のキャラット港に接岸したフリーダム号は、本部の人間から爆弾と追加の人員8名と武装を受け取り、23日未明に出港。25日夜に川棚に帰り着いた。
その頃川棚隊は、佐世保に出向き、三菱・ミラージュ2台を購入。当初はミニカが有力視されていたが、爆弾と戦闘員を載せた状態では速度が上がらないことから断念され、ミラージュが選ばれた。
そしてミラージュは12月に納入され、急ピッチで爆弾の取り付け作業が行われ、12月29日昼、ミラージュはフリーダム号に積載され、川棚隊28名は中原を隊長として、ここで決起の会をひらいた。1984年12月29日午後3時10分、フリーダム号は川棚を出港。羅戊京へ向けて、戦いの旅に出た。
船内で中原はミラージュに乗り込む人材を指名。1号車は木曽裕樹を車長に大野・萱原・西の4名が選ばれ、彼らは羅戊駅南口に車を停め、バスターミナルから駅に侵入しそこで銃を乱射、無人の車はその後爆発する予定だった。
2号車は大川勇を車長に小原・松・大石の4名とされ、彼らは羅戊駅北口を襲撃したのち、車を爆破するものとされた。
その後続で川棚から持ち込んだワンボックスカーに隊長の中原をはじめ戦闘員10名が無理に搭乗し、羅戊駅でのテロを支援するものとした。残された10名は船を回送しユウタンポ港に向かい、その後駅でのテロを成功させた部隊と合流するものとした。
1984年12月31日午後11時ごろ、羅戊漁港のはずれにフリーダム号が接岸。ヘルメットと防弾チョッキ、自動小銃で武装した戦闘員が車に乗り込み、それぞれの持ち場へ向かう。
午後11時52分、羅戊駅南口に1号車が到着する。続いて54分、2号車とワンボックスが到着。決行の時間まで余裕があるため、市内をすこし回り時間を潰した。そして1985年1月1日、年越しの花火が打ち上がった音を聞いて、各車が一斉に羅戊駅を襲撃。夜行列車「ミッドナイト」号到着直後のため人が多く、脱出に手間取ったことで死傷者が増大し、死者48名、負傷者340名を出す大惨事に。警官隊は彼らの動きを察知し止めに入ったが狙撃され2名が殉職。結果、帝国親衛隊帝都防衛隊が介入。中原ら川棚隊は10名が戦死。中原も重傷を負い、なんとか引き上げた。ミラージュ2台の爆破による被害は出なかった。
なんとかユウタンポ港まで逃げ延びた8名は事前に停泊していたフリーダム号に乗船。バタケールへと逃走する。
そして1985年1月1日午前0時7分、バタケール人民解放戦線は大ぶらうん帝国政府に対して宣戦布告。帝国政府は人民戦線絶滅を誓い彼らに対して武力行使を決定。第三次バタケール紛争が開戦した。
-開戦から最後の出港まで-
フリーダム号は開戦後、攻撃艇母艦としての活動をはじめる。船舶を引き上げられる装置の存在によって、小型艇を自由に引き上げ、または降ろして活動した。
開戦1年は大規模な戦闘が起きていたが、1986年1月24日の風衣葉台蜂起作戦の失敗を受け、人民戦線側は戦闘スタイルをゲリラ戦術へと転換。これに帝国軍は相当苦しめられる。
1987年になってもジャガーリ湾の本部はおろかキャラット港のフリーダム号すら拿捕できていなかった。
1987年6月3日、フリーダム号は川棚へ向けて出港。帝国政府側は、川棚が彼らの支援を行なっているのではないかと疑っており、実際に川棚は有象無象の支援を行っていた。資金等もやりくりしてもらっていたこともあり、ここでの出港は危険だと止められたが、実はキャロールをはじめとした幹部の退避にふさわしい改造を川棚の秘密基地に施すために必要な渡航であったためにこの作戦は強行。30名規模にまで拡大した川棚隊は、6月6日に川棚へ到着。秘密基地へと向かい、そこで予備の武器の回収と、司令部移設のための工事を開始した。
88年2月ごろに完成し、1988年3月16日、一度キャラット港に戻るため、23名を乗せてフリーダム号は出港した。
-帝国軍のフリーダム号撃沈作戦-
帝国軍は1985年1月の羅戊駅テロ事件によってようやく「すみれ」号改めフリーダム号の消息をつかんだ。フリーダム号はすぐに攻撃対象の船となったが、キャラット港には多数の機雷が敷設されており、接近が困難だった。
そこで潜水艦による攻撃が立案され、1986年9月には承認。そこからフリーダム号のスキが何度も探られ、本格的な撃沈作戦か立案される。
撃沈にあたって、3つの作戦が立案された。キャラット港に侵入して撃沈する「第一もみじ作戦」、出港直後を狙い撃沈する「第二もみじ作戦」、そして外洋航行中に撃沈する「第三もみじ作戦」である。
第一もみじ作戦は、被害の増大を恐れた海軍によって廃案になり、続く第二もみじ作戦も、海岸付近での撃沈となることから、国民に知覚されやすく、反戦団体からの反発を招くとして却下。結果、第三もみじ作戦が採用され、事故を装い撃沈することにした。
1988年3月16日、帝国軍が川棚に送り込んでいた諜報員によってフリーダム号出発が知らされる。帝国海軍はこれを好機と見て、帝国の領海に入る3月17日深夜ー18日未明にかけてフリーダム号を攻撃することを決定。早速第三艦隊麾下の第四潜水艦隊から26番、27番、28番の三隻の潜水艇が引き抜かれ、任務艇という偽装コードをつけてフリーダム号が通過するであろう海域に向けて出発した。
-接敵から撃沈まで-
1988年3月17日22時14分、第26番からフリーダム号とおぼしき艦艇を発見したと参謀本部に報告が上がる。直ちに参謀本部は撃沈を命令。参謀本部は船舶の国籍等を照査するよう要求。22時17分、浮上した26番は潜望鏡をわずかに出し、リベリア船籍、フリーダム号であると確認した。22時17分49秒、26番は急速潜航し目標へ向けて魚雷発射の準備を整える。22時18分50秒ごろ、発射準備が整い、22時19分05秒、26番はフリーダム号に向けて魚雷1本を発射した。
22時19分58秒、フリーダム号は左舷に被弾。発射が成功したならば、魚雷を投棄し即座に撤退せよと厳命されていた26番は攻撃位置を報告して撤退。これを受けて22時25分ごろ、海軍の掃海艇と駆潜艇らあわせて6隻が出動し、現場海域へ急ぐ。
フリーダム号は防弾のぼの字もないただの貨客船である。よって船はあっという間に浸水した。船長の長田佳樹は総員退艦を指示し、救命ボートが降ろされた。だが救命ボートを降ろしている間に船の強度は急速に低下。22時30分、一隻目のボートを下ろし、二隻目のボートを下ろし始めた頃、とうとう船は耐えられなくなり、真っ二つに折れた。ボートを支えていたリールがたわみ二隻目のボートはほぼ投げ出されるように海に降下した。奇跡的に転覆することはなかった。
22時31分、船体が大きく破壊されてからわずか1分足らずで、船は引き摺り込まれるように沈没。被弾からわずか11分、帝国軍は撃沈に成功した。
22時49分、帝国海軍の駆潜艇が偶然を装い通過し、フリーダム号撃沈成功と遭難者の救助を報告。23時10分ごろに現場海域を離脱した。
そして23時15分、事前に待機していた掃海艇とサルベージ船が到着。フリーダム号の船体回収が行われた。左舷側の回収が特に急がれ、結果マスメディアの現場リポート開始前に撃沈に関する重要な証拠の回収に成功した。
3月18日午前1時29分、事前の取り決めの通り、帝国日報社系列のRCBが速報としてフリーダム号「遭難」の第一報を放送。現場でサルベージ活動を行う帝国海軍の情報や乗員の救助の旨などはこの時伏せられ、単に船との連絡がつかなくなったという情報のみが報道された。
帝国独立系放送局の新東放送などはこの報道について出し抜かれた形になった。
1時35分、帝国軍は正式にフリーダム号が遭難したと発表した、同時に海・空から捜索が始まり、捜索のために事故現場近辺を空域封鎖すると発表。報道機関のヘリなどは一切の立ち入りを禁じられた。
5時48分ごろ、フリーダム号とみられる破片の一部を発見したとRCBが伝えた。
そして7時ごろ、破片の調査の結果、フリーダム号は沈没したと伝えられ、同時に付近の海域でフリーダム号の乗員らが乗ったボートを発見、救助したと報道された。
フリーダム号沈没の報道はすべてRCBが帝国軍情報部の脚本通りに報道し、ことを動かしていた。夜間ということもあり他の放送局は第一報の放送が数時間単位で遅れ、その結果として他社が取材し、報道する頃には、軍は撃沈につながる核心的証拠を全て抑えきっていた。
こうして事件は闇に葬られ、事故として取り調べが始まった。
事故要因として、船が爆発したこと、積荷が燃料だったことを明らかにした上で「たばこの燃えかすと思われる物体が発見された」として、火の不始末が原因だと結論づけた。1989年6月、事故調査委員は最終報告書を提出し、この事故は幕を下ろした。
-帝国軍の再調査-
しかし帝国軍は船体の9割を回収したものの、大きな破片がまだ残されていた。バタケール水道に面する自治体の住民から、船の部品の漂着が報告されることから、1989年5月、帝国軍は再度現場海域をサルベージし、船の爆破を物語るある部品を手に入れた。
その後も89年12月にかけてサルベージが幾度となく行われた。
明らかな不審さを醸し出すこの行動。とうとうベールに包み続けていた謎が明らかになる。
-発覚まで-
1990年3月、事故発生から2年となるこの時期、独立系報道局の「新報羅戊」のジャーナリスト、小野裕はこの事故について「陰謀である」と唱えている人民解放戦線の元メンバーを取材した。「燃料保管場所は甲板だった」こと、爆発のあった機関室の鍵は船長と機関室長しか持っていなかったこと、ふたりともたばこは吸わない人だったことが明らかになる。
そのうえで「私は関係者でないから、はっきりそうだとは言えない」としながら、「政府か、軍か、他の組織かの陰謀はあり得るのでは」と話した。はじめは陰謀はないと考えていた小野も、説得力のあるいくつかの証拠を確かめるうちに、可能性はゼロではないと考え、調査を始めた。
1990年8月、小野は取材のためにバタケール水道へと赴いた。すると事故現場とされる海域では帝国軍艦艇が活動しており、近づこうとすると軍の小型のボートが小野の船に接近し、「この海域で訓練を行なっているので近づかないように」と注意を受けたため現場海域から小野らは立ち去った。
1990年11月、再度赴くも、そのときも帝国軍は演習していた。1991年の正月に三度訪れたがその際も一時的な軍事的緊張を理由に海域が封鎖されていた。
1991年8月にようやく現場海域まで近づけたが、当然海は凪いでおり、潜水士とともに潜ってみたものの部品はなにも残されていなかった。ただ土を大量にもぎ取った跡が残されていおり、海底を根こそぎ持っていったことが明らかになった。
1991年9月、とある関係者から極秘で情報提供を受けた。それはフリーダム号の沈没に軍の関与があることと、撃沈の証拠はあの夜のうちに全て持って行かれたことである。
そのほか、1991年10月には別の関係者からも情報提供を受け、魚雷が命中した直後に「左をやられた、ああ沈む」という電話があったことが明らかにされ、撃沈の証言が集まった。
1992年2月27日、新報羅戊紙はコラムにて「フリーダム号は"事件"だった」と題する記事を発表。波紋を呼んだ。
帝国軍、帝国政府ともにだんまりを決め込み、3月10日、記者会見で否定。あくまでも事故調査委員会の報告書を政府としての見解とした。
帝国政府内ではこの問題への対処を話し合い始めていた。否定し続けることは政府に対する国民の求心力を失う要因になるとして、速やかに事実を述べるべきとの意見と、隠し通すべきとの意見でまっぷたつに。帝国議会特別委員会でも議論はまとまらず、結局皇帝リッテル1世に全ての判断を仰ぐことにする。
リッテル1世は退位を控えており、なんとか次世代に禍根を残すまいと情報発表に前向きな姿勢を示されたが、直後に軍参謀本部が鴎離宮に押しかけ、情報開示の停止を強く要請した(4月事件・4月クーデター)。
皇帝とはいえ軍への反駁は最悪暗殺という結末を招く。リッテル1世はこれを渋々のみ、息子のぶらうん3世に全てを託すことにされた。
1993年、新皇帝ぶらうん3世が即位。軍政改革へと乗り出し政治将校の7割を軍に差し戻した。軍側は反対して93年12月、羅戊京でクーデターを計画したが、これを察知したぶらうん3世はすぐに軍内部への工作を開始。腹心でぃーとりっひを送り込み、軍を掌握しにかかった。軍も明らかな掌握のための工作に嫌悪感を示し、1994年2月14日、バレンタインの日を狙ってクーデターを起こすも、ぶらうん3世はこれを根拠に戒厳令を発動。軍への強制解散勅令を発布し、従わない者へは憲兵を差し向けた。こうしてクーデターを未遂に終わらせると戒厳令を利用して軍部の反皇帝的グループを一斉摘発。そっくりそのまま忠良な軍人へと置き換えた。
こうして軍の反対を抑え切った政府はついに事実を明らかにする。
-政府の事実上の撃沈認定-
1995年10月2日、皇帝陛下は海軍大臣・船見宏鞠を訪問し、集めた証拠を手に軍による撃沈の事実の認定を迫った。
宏鞠は次期海軍大臣の座を古谷重政と争っていたために、ここで事実を認めることが古谷との政争にけりをつけるチャンスと考え承諾。
1995年10月17日、海軍大臣として撃沈を目標にした作戦の存在を明らかにした。
皇帝陛下は追認され、事実上、撃沈を認めることになった。
-その後-
1998年10月20日、事件から10年以上が経過したこともあり、ぶらうん3世は現場海域において演説を行い、この事件を契機に、バタケールへの宥和政策と帝国はこれまでの間違いを背負っていかなければならないと宣言。
1999年10月に撃沈地点付近のバタケール・ポテイト油田跡地に記念碑が建てられた。
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