9月事件

9月事件とは、ぶらうん共産党とその傘下組織による一連の暴動、テロ事件の総称である。
本項では、同時期に発生した南フラワット警察事件についても記す。

前哨戦

1959年2月、当時のぶらうん共産党書記長、ボグダノヴィチ・アンドレーエフは1959年中に帝国の各所で同時多発的に「革命闘争」を開始することを幹部らに発表し、1959年3月にはぶらうん共産党軍事評価会で作戦が立案され、帝国各地から武器が集められた。

1959年5月、ラボラールブルグ近郊の山中に戦闘の拠点である「北ベース」が建設されはじめる。また、パラソル委員会、フラワット委員会、ポータル委員会に対しても同様に戦闘拠点を建設するように指示した。

帝国警察と帝国軍はこの動きを捉えており、1959年5月28日、北ベースに陸軍機甲師団を投入しこれを破壊、党員48人を逮捕した(北ベース事件)。
共産党書記長アンドレーエフはさらに首都の郊外の共産党員の山を利用して再び基地を建てる。今度は地下に主要施設を配置した強固なものとなる。

1959年7月14日、武器を運び込んでいた共産党員と地元の狩猟団体が衝突し交戦(レムーバル峠事件)。狩猟団体のメンバー2人が負傷し、共産党員も2人が負傷した。

この戦闘以降、アンドレーエフは帝国官庁の構成員だけでなく、帝国国民に対しても協力の色を見せないのであれば武力攻撃を許可することにした。

1959年8月1日、共産党が保有するトラック3台が右派組織「大ぶらうん愛国軍」により爆破された。翌日の8月2日、また同様に共産党保有の車両が複数爆破、破壊された。

アンドレーエフは遂に武力攻撃に踏み切り、1959年8月10日、大ぶらうん愛国軍最大の拠点、ラボラールブルグ郊外ミーンの本部を武装した党員200人で包囲、直後に窓から火炎瓶を投げ込み、大ぶらうん愛国軍と大規模に衝突した(8.10事件)。この戦いは最終的に大ぶらうん帝国陸軍が鎮圧のために拠点を砲撃、共産党、愛国軍問わず銃撃を行い、それに対し両組織も銃撃したことにより大規模な銃撃戦が起き、多くの人が亡くなった。死者は30人とも50人とも推定されている。

共産党は山の基地に撤退し、愛国軍は拠点を失ったことで瓦解し、帝国軍は帝国軍で市民や都市への被害を加速させたとして組織の体質、構成員の倫理観などが厳しい世論の批判を浴びた。


1959年8月10日のこの戦闘を境に、急速に暴動は減ったが、共産党はより武力革命の意思を堅くした。1959年8月24日、アンドレーエフら共産党幹部から8月テーゼが発表され、武力革命を推し進める党の綱領を支持した。

ラボラールブルグ事件

1959年9月3日、アンドレーエフは武力革命の開始を宣言、同時にラボラールブルグでは官庁街で車が爆発。時の女帝カリルティーナは帝国親衛隊保安部国家保安部隊に出撃を命令し、同時に帝国陸軍も首都ラボラールブルグを流れるラボーン川に架かる橋や国道の封鎖を決行、共産党の革命軍を首都南部の地域で包囲することに成功する。しかし、包囲された地で共産党は頑強な抵抗を行った。

アンドレーエフはラボラールブルグだけで革命闘争が起きている当時の状況では革命は遂行されないとして、ラボール島南部のフラワット委員会、パラソル委員会、ポータル委員会に革命闘争開始を指示する。


フラワット反乱、アンドレーエフの逮捕

アンドレーエフの指示に真っ先に対応したのがフラワット委員会であった。9月5日、フラワット委員会長のアリナ=フラワットは同志90名に対して革命闘争の開始を宣言。
直後にフラワット市中心部のフローラル大橋で陸軍と衝突する(フローラル大橋の乱)。さらに市街地て泥沼銃撃戦を繰り広げ、戦闘に参加したメンバーの半分近くが負傷、または死亡する大惨劇を引き起こした末に自決しようとしていたアリナを陸軍が発見し拘束。

フラワットでの事件はこの一連の事件においての共産党側の被害として最悪規模のものとなる。
この知らせを受け、9月7日にアンドレーエフは作戦停止と撤退を指示。しかしながら撤退中の車列を帝国軍が停止させてアンドレーエフら幹部を逮捕。同時に山の基地が帝国空軍に発見され9月8日に強行突入がおこなわれさらに共産党軍事評価会長ジョゼフ・クローチャらが逮捕された。


パラソル蜂起の失敗

アンドレーエフは逮捕直前、パラソル、ポータルの各委員会になるべく早い段階において革命闘争を開始するよう命令した。それを受けてアンドレーエフが逮捕された9月7日、パラソル委員会は革命闘争を開始するも事前に配備された陸軍などにより鎮圧され失敗。
ポータルでの反乱は、そもそも遅れ気味の9月9日に発動の予定だったことに加え、9月8日に軍事評価会のトップらも逮捕され指揮系統が崩壊しとことを受けて闘争開始の宣言すらされずに軍に投降。
この事件により党員100名近くを何かしらの形で失い、残されたメンバーも脱退、分裂を繰り返してぶらうん共産党は1964年に消滅。後継にぶらうん社会革命党など複数の政党が乱立したが、最終的に1984年、最後に政党として認められていた新ぶらうん党が解体されその系譜は途絶えた。

南フラワット警察事件

南フラワット警察事件とは、9月事件期に発生した警察の不祥事である。
概要
南フラワット警察署は、フラワット市南部スーズランにかつて存在した警察署である。主に南フラワット郡とフラワット市の旧南フラワット郡地域を管轄していた。

その署長フリードリヒ・マイヤーは卓越した判断能力が有名であったが左翼的思想の持ち主だった。当時警察には「反政府的勢力の弾圧」という任務があったが、この地域では右派への弾圧は苛烈を極めたが左派への弾圧は微々たるものであった。そのため、左派革命家の亡命先としてよく名前が挙がっていた。また逮捕したとしてもうやむやになってしまったり捜査記録が不審に紛失しているなど、かねてより疑念が多い警察署であった。

その中、1959年6月頃からぶらうん共産党フラワット委員会委員長アリナが署に訪れ、「署長に会わせろ」と問い詰める。
変装をし、夏なのに顔を頑なに出さないアリナのファッションは応対にあたった警察官に疑念を抱かせるが、彼女がこの地域で絶大な力を持つフラワット家の名前を挙げたこと、このとき「ルーン=フラワット」と名乗った(ルーンという人物はフラワット家に当時存命であった)ため、警察官は大事な話だろうと署長室に彼女を通した。

このとき、フリードリヒとアリナは南フラワッ警察署管内での事件を起こさず、この地域の掌握宣言を受け入れることを条件に武器の供与に合意し、翌日から警察署に保管されていた特殊警棒や拳銃が供与された。
そしてフラワットでの反乱は悲惨な市街戦を経て終戦した。しかしこの時逮捕されたアリナは南フラワット警察署からの武器支援を受けたと明かす。これにより南フラワット警察署は家宅捜索を受け署長フリードリヒが逮捕された。また、南フラワット警察署は閉鎖され、爆破解体された。いったい何が彼らを駆り立てたのか。怒りかそうかそうか。

そして跡地は今も放置され買い手がつかないという。1962年にこの事件について判決が下されアリナは終身刑、フリードリヒも懲役40年の刑に科せられたという。
結局どうなったかというとアリナはその後体調を崩し1964年3月に死去。未だに正確な死亡日は直系の家族のみにしか知らされていないという*¹。フリードリヒは恩赦も検討されたが許されず、1984年に死去。
南フラワット警察署の事件は関係者が獄中で亡くなる、という悲劇的な最後でもって締められた。

*¹ 元:共産党員や左派の人間にとって「特別な日」とされることを避けるための措置とされる。


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