金柑型掃海艇
金柑型掃海艇とは、大ぶらうん帝国の掃海艇である。
パラソル州近海を航行する金柑型掃海艇第一番艦「金柑」。1959年9月2日撮影。
概要
日本海軍の19号型掃海艇の設計をほぼ流用し1944年から建造された掃海艇。掃海艇でありながら強力な武装を施した同船の設計思想を引き継いだこの艦艇は、本来の掃海任務のほかにも輸送船団の護衛や沿岸哨戒などを行った。
戦歴
最初の戦闘は1947年2月14日、レイン王国による「バレンタイン・ショック作戦」での戦闘である。このときレイン王国の駆逐艦3隻と金柑型4隻が交戦し3番艦「文旦」が大破擱座し、4番艦「伊予柑」が中破。レイン王国の駆逐艦1隻を大破させ、1隻を小破させたがそれでもこの艦の防御力の不十分さが露呈した。
次の大きな戦闘は1959年9月の9月事件である。ポータル諸島で反乱を起こしたぶらうん共産党ポータル委員会が鹵獲した駆潜艇や内火艇を制圧するためにパラソルから4隻が赴いた。駆潜艇1隻を撃沈、ポータル諸島の海上封鎖に大いに貢献した。
フーレタール反乱の際にもほかの主力駆逐艦や軽巡洋艦らが海上封鎖を行う傍らで輸送船団や不時着機回収船の護衛を行った。
バタケール紛争時はバタケール国会再生軍の艦艇と戦闘をおこないうち1隻を喪失した。
現在
現在、その多くが建造後70年以上経過しているが異様に物持ちのいい帝国海軍は未だに第一線で活躍させ続けている。
その傍ら、候補生の練習艦としても活躍し、この船に育てられた帝国軍人も多いとのことである。
同型艦
金柑型は30隻の建造が計画されうち20隻が建造された。19番艦については原型艦となる19号型掃海艇への敬意を払う意味を込め愛称をつけず番号のみとした。
20番艦「枸橘(からたち)」の建造直後、帝国の財政難を理由として建造が打ち切られる。当時、より大型で重武装を誇る椿型海防艦が建造されはじめたために、リソースをそちらに割くこととなり、建造が停止された。
なお建造停止が決定されたとき、21番艦には愛称がついており、50%建造が完了していた。22番艦以降には愛称がつけられていなかった。21番艦につけられていた愛称は30号海防艇が「檜型海防艇」として愛称が振られることとなった際に檜型の7番艦につけられた。
1番艦 金柑 (きんかん)
2番艦 蜜柑 (みかん)
3番艦 文旦 (ぶんたん)
4番艦 伊予柑(いよかん)
5番艦 夏柑 (なつかん)
6番艦 甘夏 (あまなつ)
7番艦 橘 (たちばな)
8番艦 九年母(くねんも)
9番艦 椪柑 (ぽんかん)
10番艦 枸櫞 (くえん)
11番艦 柚子 (ゆず)
12番艦 臭橙 (かぼす)
13番艦 酢橘 (すだち)
14番艦 八朔 (はっさく)
15番艦 甜橙 (おれんじ)
16番艦 三宝柑(さんぽうかん)
17番艦 日向夏(ひゅうがなつ)
18番艦 檸檬 (れもん)
19番艦 (艦名なし)
20番艦 枸橘 (からたち)
21番艦 (花柚 計画のみ)
喪失
2隻が喪失、あるいは戦闘不能状態になっている。
3番艦「文旦」
1947年2月14日に帝国の領海に侵入してきたレイン王国軍の艦艇を迎撃すべく出撃、翌15日、パラソル諸島沖でレイン王国軍の艦艇による攻撃を受け大破、浅瀬まで引き上げてきたものの1947年2月16日午後23時10分ごろ、パラソル近海において擱座した。その後放置されていたが1959年8月2日共産党による内乱の危険性が高まり同党に利用されることを恐れた海軍によって自沈処分された。
13番艦「酢橘」
1972年8月24日午後21時3分、バタケール近海を哨戒中にバタケール国家再生軍のミサイル艇に攻撃を受ける。ミサイル艇を撃退することには成功したものの右舷側に攻撃を受けて艦は傾き出す。午後22時20分、機関室から機関の再起不能が伝えられ、艦長から総員退艦が指示され、ブロッカ島から救援に駆潜艇2隻が出動した。
午後22時35分、駆潜艇2隻が右に30度近く傾く「酢橘」と退艦する船員、そして内火艇を発見、駆潜艇側も内火艇を下ろし乗員の救助を開始する。
午後23時2分、全員の退艦を確認した艦長以下14名の幹部が退艦。艦長は「酢橘」の乗員ならびに駆潜艇2隻の乗員に対し箝口令を布告した。
日付が変わり8月25日午前0時14分、「酢橘」は未だに浮いていた。艦長いわく「なぜまだ浮いているのか不思議なくらいの損耗だった」。そこで艦長と駆潜艇の艦長は会談を行い、ついに雷撃処分することに決定、午前0時41分、駆潜艇2隻から放たれた魚雷4本が左舷に命中、直後に轟音とともに火柱が立ち、酢橘は真っ二つに折れるように沈没した。
箝口令の効果もあり長年沈没場所は不明であったが2003年10月、民間団体が沈没位置を特定した。それによると、酢橘はバタケール州都ニーソークブルグから西南に80キロの海上で沈没したとのことである。2007年2月、大ぶらうん帝国海軍も同地点を沈没地点と認定した。
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